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永遠に旅

だいたい旅してる。いつかどこかにたどりつくために。

海外をフラフラしていたから?日本の常識や習慣に疑問ばかり感じるようになってしまった。

会社員という存在に、やはりどうしても嫌悪感を持つようになってしまった。ということを、父親と話していて再認識した。どうしてだろう?子供の冒険の延長で、学生時代から外国をフラフラしていたことも理由の一つかもしれない。

いつまでも子供の考えから抜けられていないような気もするけど、抜けた先にある考え方は手垢にまみれた常識や慣習の世界なのだろうか。

常識でできた世界

日本の会社に勤めていれば、その商習慣が身に着く。もちろんそれは日本社会で生きていくには必要なことなのだろう。でもそれはあくまで日本社会でのこと。外国をたくさん見てくると、日本のうわべのやさしさと過剰サービスはなくてもいいな~と思う。

海外インターンを除いてはBtoCしかみていないけど、私が見てきた範囲から言うと、外国のサービスは適当なことが多くて、代わりに心が見える。マニュアル化していない分、それぞれがやるべきことと、お客さんに任せてもいいことを考えて仕事をしている。のかもしれない。

だから、よくある陳腐な言葉だけど、優しさがあれば世界は回ると思う。日本の常識をもって海外に行ってもそれは通用しないし、逆もしかりで、外国人があっちの常識だけを持って日本に来ても日本になじめないで、マナーのない外国人と認識される。

でも、意味のないことはこの世界では起きない。火のないところに煙は立たない因果応報の世界なのだ。

みんな自分の国の常識に縛られず、他者を思う優しさと、思考力を持って生活すれば、最も効率的で、優しい世界ができると、ここ数年は信じている。

「あやしい」とはなにか

私は最近、個人事業とアルバイトをやってます。内容はインターネット環境があればできるような仕事なので世界どこでも業務可能。これを両親に話すと、「怪しい」とか悪い印象を持っていることを言われる。

私は両親からそれなりに愛を受けて育ってきたので、両親の言葉は私を心配する気持ちからくるものだともわかる。

誰に何と言われようと、法人レベルでない個人インターネット事業といった宙に浮いたような存在であっても、私は彼らを信頼しているから、両親の言葉に少し気が悪くなるだけで、何も自分の道に疑いを持たない。

自分が正しいと思った道を選んだのだから、信頼している彼らに騙されても、それはそれで…ということ。どこかの悪徳商法の様に、レッスン料金30万先に払ってとか言われているわけではないので、自分の見る目にうんざりするくらいで、懐に痛手を負うこともない。

では、「怪しい」って何だろうか。怪しいって今までの経験から知っている情報を集めて、検証した結果、「これは詐欺かもしれない」とか、そういう結果で思い当たるのじゃないかな?

では、その今までの経験とは何か?私の父に限って言うと、父は人生を日本で過ごしてきて、そのうちの半分は日本の大企業の一員として過ごしてきた。私は父の「父」という側面しか知らないけど、日本が五臓六腑にしみこんだ純日本人的な要素をあらゆる面で持っている人のだと思う。

たかだか20半ばで父の考え方や経験に何かを言うのは畏れ多いことだが、私は父よりも他の国のことは肌で知っている。私はフィールドを半分海外に置いている。仲のいい友人も外国で知り合った人たちが多い。そして彼ら海外で出会う人たちは「怪しい」。

なぜなら普通に会社に勤めて、日本に住んでいると出会わないからだろう。初めて海外一人旅した時はちょんまげみたいな髪で、頭に入れ墨をしたおかしな人は日本人であるはずがないと思ったが、地球の歩き方を読んでいる私に話しかけてくれた。日本人であることにも驚いたし、彼が3年ほど旅を続けているということにも20歳の私には衝撃的だった。

他にも夫と二人で事業をしていて、交互にフラフラ外国を渡り歩いているという女性や、なんだかわからないが宿でいつもマックブックを開いていて、これで仕事をしているという40歳くらいの人もいた。

彼らは企業に勤めているという証明もなく、怪しい。日本に住まず、いわば社会からドロップアウトしてしまったようにも見え、怪しい。しかし、ちょんまげの彼のことだが、あとで彼のブログを見たら非常に多感で素朴な印象さえ受けたし、「怪しげ」な人が本当に怪しいことをして、国際警察に追われているというようなことも、現状聞いたことがない。(しかしカンボジアで会った目がいってる太鼓男は捕まってたな)それ以前に具体的な話を聞けば、怪しさはぬぐわれ、その正当性や新しい話にワクワクすることの方ががほとんどなのだから。(ある程度の怪しさは察知する目は前提に…)

 

そのような、日本に普通に暮らしていれば出会わないような生活スタイルの人たちに、私が怪しさを感じてしまうのは、私がレールを踏み外すことなく、受験や就活をそれなりにこなしてきたから。旅をして外国を見なければ自分の生活で出会う人たち以外のことを怪しいと思っていただろう。ニュースや新聞で「最新」という、その分野にいる人間からしたら、大して最新でもない情報を知って、私たちは世界事情にキャッチアップしているつもりになっているので、それ以外の聞いたこともないような話は「怪しい」のだ。

ちょんまげの彼のことだが、私が出会ったころにはもう日本に帰るといっていた。彼は帰国後、さわやかな社会人カットに髪型を変えて一般的な風貌で勤めているのだろうか。それともその風貌は変えず、「怪しい」と思われる世界に身を置いているのだろうか。

 

小さな疑問

なんで会社の上司は部下を「お前」と呼ぶのだろう

会社に所属していた際、上司たちは初対面の部下のことも「お前」と呼んでいて、なんとなく上の人という印象をもち、そういう人柄なのかと深くも考えずに納得していた。でも、小学校とか中学校とか早い段階で、「人のことを『お前』と呼ぶのは荒っぽい、ぶしつけ」な印象を与えるということを知っていた気がする。

通常の会社というのは「常識」の枠を暗黙の了解で持っているだろうし、「日本社会」というものに組み込まれてそういう商業活動をしている。

なんでそんながちがち「常識」社会の人間たちが「お前」という風に人のことを呼べるのだろう。人のことは基本的に名前で呼ぶ方が仲良くなれる。キリスト教でも「名前を呼ぶこと」は非常に大切なこととして教えがある。社会人たちはいつからそんな風に変わったのかな?

私の父は私のことを名前やニックネーム、〇〇ちゃんと大抵は呼んでいて、怒らなければやわらかい人。でもある時会社での出来事を話していた際、父も部下のことをお前と呼ぶのだと知った。

だからと言ってショックというわけではないけど、ソフトな印象の父の方がいいのにな~と思った。プライベートで人のことお前って呼ぶことは少ないのに、なんで会社だとそういうんだろう?父も私の上司たちの様に会社では偉い人の風体を持とうとしているのかもしれない。部下をお前と呼んだ方が、荒っぽくてぶしつけで、すごい上の人という印象を与えるような気もする。

なんでそんなに怒るのだろう

怒るのって疲れるし、両者ともにいい気はしない。激励の喝という意味合い以外の、感情のブレからくる怒りというのが、社会には溢れている。イラついてるという理由からではなくても、部下に怒るのは当たり前という習慣はどの会社にもあるらしい。私は、部下を怒るような立場にはなったことがないから全然わからないけど、上司になったら怒らずにはいられないのだろうか。

大人になれば(大人と限らずとも理解力があれば)、怒鳴りつけたり、怖い顔をしなくても論理的に話してくれれば理解できる。怒鳴って言うことをきかせるのは小中学生まででしょう。

大人になれば感情を抑える術も知っているのだから、どの時点でも人に対して怒りの感情をぶつける意味が分からない。

社会の人が、上司やお客様という権力行使で、好きな時に(吟味しているのかもしれないけど)怒るのをやめれば、柔らかい世界になる気がする。

 怪しく優しく生きること

私は意味の分からない習慣はやりたくない。もちろんやってみて慣れてみようとするけど、それに慣れたところで何なのだろう?この「気遣い」や「おもてなし」「オブラートに包む世界」は日本のものであって、それを外国人とやり合ったって何も通じない。

会社に入った時は意味の分からない日本社会独特の習慣に必死になれようとしたが、それを身に着けることは良いことのようだが、空恐ろしいような感覚も覚えた。

それを知ってしまったら企業に属する一人前の人間になるのだろうと思った。会社勤めを否定するわけではないが、ずっと会社勤めのばあい、それ以外の道を「無謀」とすることが多い気がする。本当にそんな人ばかりではないけど…。

人生は冒険しなければつまらない。何か自分の理解できない習慣を取り込んで、うまく世渡りするのもいい人生かもしれないが、どうせなら、自分を最大限に出して「怪しく」生きていきたい気がする。そんな人間だって優しさを持っていればうまく世界を回していけるはずだから!

 

いい年してお父さんに反抗している放浪家からでしたっ!